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【議論に勝つ原則 1】

● 対等の感覚を持て  −−ヤクザに議論なし

                   諸野脇 正@インターネット哲学者
                  【e-Mail】 ts@irev.org
                  【Web Site】 http://www.irev.org/
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■ 元『週刊朝日』編集長M氏の抗議文
 
 元『週刊朝日』編集長M氏の抗議文なる文章がある。(注1)
 烏賀陽弘道氏がホームページで公開した文章の「訂正」・「削除」を要求する文章である。
 

 あなたの書いたHPに、「実際、98年まで週刊朝日の編集長だったM氏は、ワインの収集が趣味で、週刊朝日のグラビアを使って、世界のワインを訪ねて歩くシリーズ取材を部員にさせていた。無論、海外取材に行かせてもらうかわりに、部員はお土産のワインを買ってくることが暗黙の了解である(これも取材に行った編集部員から直接聞いた)これは噂だが、彼の自宅にあるワインセラーにあるワインの大半は会社の経費で買ったものだそうだ。」とありますが、全くの事実誤認ですので、訂正の上、削除することを求めます。
 〔上の「M氏」は原文でも仮名になっている。以下の実名部分は全て諸野脇が仮名にした。〕(注2)
 
 
 一般に、他人のホームページの文章の「訂正」・「削除」を要求するのは大変なことなのである。文章の筆者は、それでよいと思っているから、そのように書いているのである。
 だから、「訂正」・「削除」を認めさせるのは大変難しい。
 その難しいことをM氏は出来るのであろうか。
 このような意識で先を読む。
 抗議文の最後に次のような文言がある。
 

つまり、君の書いたほぼすべての文章が事実誤認に基づいているということです。個人的HPといえども、あなたも書いているように自由に引用するメディアが出てくる以上、そして、そのことによって名誉を毀損される人物が出てくるという事実があります。君もジャーナリストならば、もう一度きちんと取材し直して、正しい記事を書いてください。誤りだったことが分かったならば、ただちにHP上で訂正を出してください。それが、これからノンフィクション・ライターとしてやっていく最低のモラルだと思いますがどうでしょうか。
 
 
 ここを読んで、私は「これはダメだ。」と思った。「M氏には勝ち目はない。」と思った。
 なぜか。
 議論の相手を「君」と書く失礼な文章だからである。(注3)
 確かに、M氏は元編集長である。朝日新聞社においては烏賀陽氏の上司的な立場にあったのであろう。しかし、既に、烏賀陽氏は、朝日新聞社を退社したのである。もう、外部の人間なのである。対等の人間なのである。その対等の人間に対して、M氏は「君」と部下扱いしているのである。
 
 
■ 〈すき〉を攻める
 
 これは〈すき〉である。このような〈すき〉を作るのは危険である。〈すき〉を攻められる恐れがある。次のようにである。
 

 M様は、私のことを「君」とお呼びになっています。
 しかし、私は、もう朝日新聞社を退社した身です。外部の人間なのです。
M様の部下ではないのです。
 ですから、このような上から見おろしたような言葉づかいは不当です。
 対等の人間関係を求めます。
 M様は、対等の感覚を欠いていらっしゃいます。
 まず、この点の謝罪・訂正を求めます。
 この点の謝罪・訂正が無い限り、M様からのメールには一切お応えいたしません。
 対話の前提が成り立たないからです。
 対等の感覚が無い方とは対話は出来ないと判断いたします。
 
 
 これは大変面倒なことになった。
 謝罪・訂正しなければ、メールに応えてもらえないのである。
 こうなってしまったのは、〈すき〉を作ったからである。
 議論においては、本筋の主張だけでも守るのは大変なのである。相手に認めさせるのは大変なのである。それなのに本筋と関係ないところまで攻められては苦しくなる。それでは、気が散ってしまう。議論が本筋からはずれてしまう。
 
 
■ 〈すき〉に絡めて本筋を攻める
 
 上で〈すき〉を攻める例を書いた。
 〈すき〉を作ったせいで、M氏はだいぶ不利になった。
 しかし、その位で済めば、まだ楽な方なのである。
 議論が強い相手ならば、さらに攻めてくる。〈すき〉に絡めて、本筋を攻めてくるのである。次のようにである。
 

 M様は、対話における対等の感覚を欠いていらっしゃいます。権威主義的です。
 これは、私が指摘した朝日新聞社の病理に繋がります。
 例えば、私は平の編集部員だという理由で「現代の肖像」の原稿をボツにされました。私の上司は、原稿を読みもせずにボツにしたのです。身分のみを気にしたのです。これは、誠に権威主義的です。
 私は、M様のような感覚がこのような行為を引き起こすのだと考えます。
 ですから、私は「君」と呼ばれた被害者として、M様に次の質問へのご返答を要求いたします。
 
 1 「現代の肖像」事件をどのようにお考えになるか。
 2 ご自身の朝日新聞社での行動に同様の悪さがあったのではないか。
 3 今まで、朝日新聞社のこのような病理に対してどのような行動をし
てきたか。
 4 また、これから、どのような行動をしていくつもりか。
 
 M様は、外部の人間を「君」と呼ぶ感覚、上下関係で物事を見る感覚をお持ちです。その悪さについて十分に反省していただきたく存じます。
 これは「君」と呼ばれた被害者として当然の要求です。
 このような反省なしには、M様と対話することは出来ません。反省なしでは、今後も同じような被害を受ける可能性があるからです。
 
 
 議論に強い人物ならば、このように〈すき〉に絡めて本筋を攻めてくるのである。〈すき〉を本筋の重要な例にしてまうのである。単なる〈すき〉では済まなくするのである。
 こうなっては、普通は、もう収拾がつかない。
 M氏は、抗議したのである。もちろん、その抗議に対して回答が欲しかった訳である。しかし、逆に質問されるはめになってしまった。質問に答えない限り、回答してもらえなくなってしまった。
 M氏は窮地に陥ってしまったのである。
 
 
■ 丁寧な物言いをせよ
 
 このような窮地に陥ってしまったのは全て〈すき〉が原因である。烏賀陽氏を「君」と呼ぶ〈すき〉を作ってしまったからである。
 では、どうすればよかったのか。
 出来るだけ丁寧な物言いをすればよかったのである。「烏賀陽様」と書けばよかったのである。(せめて、「烏賀陽さん」と書けばよかったのである。)
 M氏は、烏賀陽氏を「君」と呼ぶ。それに対して、烏賀陽氏は、M氏を「M様」と呼んでいる。メールで直接呼びかける場合、「M様」と呼んでいる。烏賀陽氏は実に丁寧である。
 M氏には〈すき〉があり、烏賀陽氏には無いのである。これは誠に象徴的である。どちらが議論に勝つかを暗示している。
 丁寧な物言いをする人間の方が、議論は強い。丁寧な物言いをするから、〈すき〉が無くなる。また、そのように用心する人間だからこそ、本筋の主張の内容を精密に検討できる。
 本筋に関係ないところで〈すき〉を作ると議論は不利になる。また、〈すき〉を作るような人間のあり方では、本筋の主張の内容が雑になる。それでは、議論には勝てない。だから、出来るだけ丁寧な物言いをするべきである。(注4)
 
 
■ 対等の感覚が必要
 
 議論とは、対等の者同士がおこなうコミュニケーションである。
 はっきりした上下関係がある状況では、議論は不要である。例えば、ヤクザ集団では大筋で議論は不要である。ヤクザの親分は議論が強い必要はない。親分の言うことならば、どんな内容でも、その集団の中では通ってしまうのである。「親分が白と言えば、カラスも白い。」と言われる位である。
 この原理を次のような標語で表そう。
 

 ヤクザに議論なし。
 
 
 ヤクザ集団においては、主張の内容の稚拙さを身分が補ってしまうのである。さらに、主張の内容ではなく、身分だけが判断材料にされるのである。このような状況では議論に強くなる必要はない。
 だから、ヤクザ的な人物は議論が強くはなれない。いばる人は議論が強くはなれない。自分の身分に頼り上から見おろす人は議論が強くはなれない。
 このような意味で、M氏は誠にヤクザ的であった。M氏は、烏賀陽氏を部下扱いしていた。対等の感覚を欠いていた。
 これは指標である。M氏が議論に弱い人間であることを示す指標である。本筋の主張の内容の検討が雑であることを示す指標である。本筋の主張において間違いがあることを示す指標である。
 
 
■ 惨敗するM氏
 
 では、実際には、議論はどうなったか。
 烏賀陽氏は、先に私が書いたように〈すき〉を攻めはしなかった。M氏の抗議の内容に応える立場を取った。相手を責めず、自分の書いた文章だけを検討したのである。この対応は理解できる。論争家としてではなく、ジャーナリストとして対応したのである。(注5)
 つまり、M氏は、だいぶ甘い対応をしてもらったのである。
 それにもかかわらず、M氏は惨敗する。予想通り惨敗するのである。本筋の主張に決定的な間違いがあったのである。
 M氏は、抗議文で次のように「事実誤認」を主張する。
 

 ● 事実誤認(2)「世界のワインを訪ねて歩くシリーズ取材を部員にさせていた」――――当時の「週刊朝日」にそうしたシリーズはありません。世界のワインを取り上げた企画はありましたが、すべて国内での取材です。……〔略〕……
 
 
 これがM氏の本筋の主張である。「世界のワインを訪ねて歩くシリーズ」について「『週刊朝日』にそうしたシリーズはありません」と記事の存在自体を否定したのである。海外取材の存在を強く否定したのである。M氏には、海外取材に行った部員から「お土産のワイン」(経費で買ったもの)をもらった疑惑がかけられている。もし、海外取材自体がなければ、この疑惑を晴らすことが出来るのである。
 しかし、この本筋の主張は無惨に破綻する。海外取材は存在したのである。「世界のワインを訪ねて歩くシリーズ」は存在したのである。
 烏賀陽氏は言う。
 

 今回、M氏の抗議を受け、小生は念のため「週刊朝日」のバックナンバーを手にとって一冊ずつ調べました。その結果、M氏の週刊朝日編集長在任中である98年10月から11月にかけて、カラーグラビアページに以下のような世界のワイン生産地を訪問する「短期集中連載」記事が掲載されていたことがわかりました。念のためコピーを取ってあります。

 ……〔略〕……

「短期集中連載 地球ワイン紀行」


*第1回 98年10月2日号 6〜12ページ ポルトガル「『液体の宝石』をはぐくむ渓谷/ドイツ「『甘くない』ブドウの有機栽培」


*第2回 98年10月9日号 15〜17ページ アメリカ「『幻のピノ』は舌ざわりが絹のよう」


*第3回 98年10月16日号 15〜17ページ スイス 「レマン湖の光と風がはぐくむ澄んだ味わい」


 ……〔略〕……

 〔以下、第7回まで連載は続いている。〕
 
 
 また、連載開始時の巻頭言には次のようにある。
 

なぜ、これほどまでワインが愛されるのか。本誌では、その魅力を探るため、世界8カ国の生産現場をルポした。
 
 
 このような事実を指摘して、烏賀陽氏は言う。
 

 もし万一、M氏の「当時の『週刊朝日』にそうしたシリーズはありません。世界のワインを取り上げた企画はありましたが、すべて国内での取材です」という主張が事実であるなら、上記の「世界8カ国の生産現場をルポした」という連載記事は虚偽ということになってしまいます。
 ……〔略〕……
 もちろん、記事が厳然と存在することから常識的に考えて、M氏の主張は錯誤に依拠していると判断します。
 
 
 つまり、M氏が「ありません」と主張していた「シリーズ」は存在したのだ。海外取材は存在したのだ。M氏の主張は、完全に間違っていたのだ。
 これは明らかにM氏の惨敗である。
 理解に苦しむほどの惨敗である。
 
 
■ 警告を無視するM氏
 
 M氏は、本当に記事の存在を忘れていたのであろう。故意に、海外取材を「国内での取材」と言い張ったのではないであろう。それでは、「虚偽」の記事を載せたことになってしまうからである。編集長が、自分の雑誌に「虚偽」の記事を載せたと主張するとは考えにくい。
 だとしたら、なぜ、M氏は記憶違いを自分で訂正しなかったのか。抗議文を書く前に訂正しなかったのか。バックナンバーを調べれば分かることなのである。
 M氏は、うかつにも記憶違いに基づいた抗議文を書いてしまった。間違った抗議文を書いてしまった。これは決定的なミスであった。
 しかし、M氏には、この間違いを自分で訂正するチャンスがあったのである。
 M氏は、烏賀陽氏から次のような警告を受けたのである。(注6)
 

 もう一度だけ申し上げますが、記憶をご確認いただくよう衷心よりお願い申し上げます。
 
 
 これは、実質的には次のように言われていると考えてよい。
 

 M様は、記憶違いをなさっています。記憶違いに基づいて、間違った抗議文を書いていらっしゃいます。今直ぐ記憶違いを訂正なさった方がよろしいかと存じます。このままでは、M様は大きな恥をかくことになってしまいます。
 
 
 普通、議論の相手にこのように言われたら不安になる。自分の方が間違っているのではないかと考える。念のため、『週刊朝日』のバックナンバーを調べる。
 M氏は、なぜ、そうしなかったのか。なぜ、烏賀陽氏の警告に注意を払わなかったのか。誠に不思議である。
 M氏は、最後のチャンスを逃したのである。自分で間違いを訂正するチャンスを逃してしまったのである。
 
 
■ 議論の相手を激しく批判するM氏
 
 思い出していただきたい。抗議文で、M氏は激しく烏賀陽氏を批判していたのである。
 

 君もジャーナリストならば、もう一度きちんと取材し直して、正しい記事を書いてください。
 
 
 これは、烏賀陽氏のジャーナリストとしての資格を疑っている文言である。〈「きちんと取材」していないので、現状ではジャーナリスト失格である〉という批判を含意しているのである。
 一般に、議論の相手をこのように激しく批判する時は、細心の注意を払うべきである。相手を激しく批判した文章で、自分が間違っていたら、誠に格好がつかないからである。もし、間違っていたら、批判の言葉が自分自身に降りかかってきてしまう。自分自身がジャーナリスト失格になってしまう。(注7)
 M氏は、議論の相手を激しく批判する。威勢がいい。それにもかかわらず(それゆえ、か)、M氏は実に雑である。記憶に頼り、バックナンバーを調べもしない。相手に警告されても無視する。
 その結果、無いと主張していた記事を議論の相手に示されてしまった。無惨にも、自分自身がジャーナリスト失格になってしまった。
 
 
■ 自己中心性を無くし、対等の感覚を持とう
 
 M氏は、なぜ、ジャーナリスト失格になってしまったのか。なぜ、こんなに無惨に負けてしまったのか。
 M氏は自己中心的なのである。自分が絶対に正しく、間違っているのは相手だと決めつけているのである。自分が間違っているかもしれないという恐れが無いのである。
 烏賀陽氏は、M氏に対して次のように言った。
 

 誠に僭越ながら、小生も何の根拠、証言もなしに当該の文章を書いているわけではないことはご記憶いただきたく思います。
 
 
 この文言が、正確にM氏の状態を表している。
 M氏は、自分の議論の相手が「何の根拠、証言もなし」に文章を書いていると決めつけている。完全に間違っていると想定している。言いかえれば、議論の相手がものすごく弱いと想定している。
 しかし、議論の相手がそんなに弱いことは、ほとんどありえない。相手も何らかの「根拠」に基づいて主張をしているはずなのである。
 だから、そのように想定すること自体が不自然なのである。自己中心的なのである。
 つまり、M氏は、対等の感覚を欠いているのである。対等の論者同士のコミュニケーションが分かっていないのである。
 議論とは、対等の論者が主張を述べ合うコミュニケーションである。だから、前もって、自分の主張が必ず正しいと決めてかかってはいけない。それでは議論には勝てない。対等なのだから、自分が間違う恐れもある。そのような恐れを感じるから、丁寧に主張の内容を検討できるのである。
 あなたが自己中心的な人間ならば、議論が強くはなれない。
 あなたがヤクザ的な人間ならば、議論が強くはなれない。
 自己中心性を無くし、対等の感覚を持とう。
 議論が強くなるためには対等の感覚が必要なのだ。
 
                    (2003年8月15日)
 
 
(注1)
 
 筆者名を「M氏」と仮名にした。烏賀陽氏の文章内の実名部分も全て仮名にした。
 これは武士の情けである。あまりに恥ずかしい文章だから、名前を出さなかったのである。
 また、この文章は、議論の原則を説明する文章である。分析の対象の文章を誰が書いたかは重要ではない。
 
 
(注2)
 
 次の文章から引用した。この文章は、烏賀陽氏がM氏の抗議文に反論した文章である。
 
   http://ugaya.com/column/taisha_morikeijiro.html
 
 以下、特に記述が無いものは、全てこの文章からの引用である。
 
 
(注3)
 
 「君」だけでなく、「あなた」と書くのも失礼である。しかし、ここでは、話を単純にするために「君」だけを検討する。
 
 
(注4)
 
 ここで私が述べた原則は、宇佐美寛氏によって既に詳細に述べられている。
 

 議論では、〈すき〉を作るのは、まずい。「すき」とは、本すじの主張以外の部分で追求される危険性がある言動である。主張の内容だけでさえ、守るのは大仕事なのに、さらにその上に弱みを作ることになる。
 議論のさいの思考は、自分と相手の主張の内容をつき合わせ比較することに集中させねばならない。他のことを考える余裕は無いはずなのである。
〈すき〉を相手に攻撃されると、そこを防ぐのに思考が奪われる。さらに、その〈すき〉をかんじんの本論である主張そのものに絡められると大変である。
 ……〔略〕……
 議論は、意見は異なるが、たがいに対等の人間が行うものである。だから、何よりも相手と対等の関係を保つように努めなければならない。
 ……〔略〕……
 だから、議論では、相手と同等かそれ以上に丁寧に発言するべきである。それくらい気を使うからこそ、相手の異質性が見えやすくなるのである。相手の考えが自分とはどう違うかに気づきやすくなるのである。

〔原文では傍点がふってある部分をヤマカッコで表した。〈すき〉のようにである。〕
〔『「議論の力」をどう鍛えるか』明治図書、1993年、26〜29ページ〕
 
 
 学問的な観点から見れば、今回の私の文章は、大筋において宇佐美氏の発見した原則を別の事例に適応したものに過ぎない。だから、オリジナルな業績としては、宇佐美氏の本の方にご注目いただきたい。
 実は、私自身には「適応した」という意識は無い。自力で考えたのである。自分の頭で考えたのである。自分の頭で考えた文章が、宇佐美氏の本と酷似していたのである。
 なぜか。宇佐美氏が私の師匠だからである。私の頭は宇佐美氏の影響を大きく受けて成り立っている。だから、同じような事例を分析すると、同じような原則を「発見」するのである。
 オリジナリティーとは何かを考えさせられた。〈私が考えているのか。宇佐美氏が考えているのか。〉の区別が厳密にはつかないのである。
 ちなみに、「ヤクザに議論なし」という部分は、私のオリジナルである。(と思う。)
 
 
(注5)
 
 一般に、ジャーナリストが読者から記事を批判された場合、その記事だけを検討するだろう。記事が正確かどうかだけを検討するだろう。読者に対して「あなたにそんなことを言う資格があるのか。」などと問い返すことは無いだろう。
 これは適切な対応である。全てのコミュニケーションが議論である訳ではない。ジャーナリストと読者との関係は、大筋で議論の関係では無い。対等の関係では無い。記事については、ジャーナリストが全責任を負っているのである。
 
 
(注6)
 
 烏賀陽氏は、「敵に塩をおくる」行為をしたのである。
 烏賀陽氏は、この警告をした段階でM氏の間違いに気づいていた。しかし、それを直ぐに批判せずに、M氏が自ら訂正するチャンスを与えたのである。
 このような「敵に塩をおくる」行為は、議論ではほとんどおこなわれない。議論においては、敵の間違いを厳しく批判するのが普通である。敵の失敗を利用するのが普通である。
 しかし、烏賀陽氏は、このような厳しい論争家としての立場を取らなかった。M氏に訂正するチャンスを与えた。退却するチャンスを与えたのである。
 それにもかかわらず、M氏は、このチャンスを活かせず無惨な姿をさらしてしまった。残念である。
 
 
(注7)
 
 M氏は、あの抗議文を烏賀陽氏に送る前に、誰かに検討してもらったのだろうか。たぶん、検討してもらってはいないであろう。検討してもらっていたなら、あれほどの間違いは犯さないであろう。
 私は、議論の文章を発表する時は、事前に研究仲間に検討してもらっている。意見を言ってもらい、書き直している。(この文章も、そのような検討をしてもらっている。)
 なぜか。思いこみによって、間違えることがあるからである。他者の目による検討によって、そのような間違いが避けられるからである。
 M氏も、抗議文を他者の目で検討してもらうべきであった。

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 ◆インターネット哲学【ネット社会の謎を解く】◆ 43号掲載
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烏賀陽氏が朝日新聞社を辞めた理由